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~第8回~ 豊かな緑と太陽に抱かれる街「光が丘」 2007.09.15
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 まず地名の由来についてお話します。

 昭和18年、土支田・田柄・高松にまたがる広大な土地は成増飛行場跡に米軍家族宿舎ができ、グラントハイツと呼ばれ昭和35年頃から土地返還運動が起こり、昭和44年緑と太陽のまちを象徴して「光が丘」と住居表示しました。

 次に歴史についてお話します。

 江戸時代、現在の光が丘公園辺りは土支田村と呼んでいました。一帯の村々は田が少なく、畑が多かったので大根・ごぼう・いも・なす等の作物を作り、ひえ等の雑穀も多くこれらを主食にしていたようです。

 明治に入り、土地の所有が認められると地主たちは私有地を増やし大地主となって、農民の多くは小作人という状態になりました。27年から翌年にかけての日清戦争、37年から翌年にかけての日露戦争の頃には、軍隊用に大麦、たくあん漬けが大量に生産されるようになりました。

 大正12年の関東大震災の後、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪辺りの宅地化が進み野菜供給地としての練馬の地位も上がりました。

 昭和7年、現在の板橋区と練馬区は東京都板橋区になりました。14年東京周辺に緑地帯を設ける計画があり、16年、防空緑地計画に変わり、そして翌年に成増飛行場建設が決まりました。18年春、用地接収(約80世帯)が始まり、8月には工事開始、12月には飛行場スタートしました。第2次世界大戦末期には空襲の標的の1つとされました。

 昭和22年8月1日、練馬区は板橋区の一部から独立して23区の1つとして発足。

 昭和22年春頃、米軍家族宿舎建設が始まり、翌年6月完成、米第18代大統領ユリシーズ・シンプソン・グラントの名をとって「グラントハイツ」と命名されました。

 昭和34年グラントハイツ居住者約1、200世帯の立川・横田基地への移転が決まり、43年12月、米軍は代替地を条件に返還してもよいと表明。44年グラントハイツ跡地一帯を「光が丘1番」と表示しました。

 昭和48年、全面返還され、56年12月26日、光が丘公園一部開園。58年3月「光が丘1番」から現在の「光が丘1丁目から7丁目」に表示変更。都営住宅、公団住宅への入居開始。平成12年、大江戸線開通。この路線の開通によって都心方面への交通の利便性はかなり向上しました。

 光が丘公園の見どころとしては、まず6ヘクタールにも及ぶ広大な芝生広場です。サクラやケヤキ等があり、ゆるやかな丘になっています。そしてバードサンクチュアリとして約2・4ヘクタールのエリアに池、樹林等を配置し野鳥をはじめ様々な生物が安心して住めるようになっています。様子は観察舎から見ることができます。

 他にもバーベキュー広場等もあり家族でゆっくりくつろげる公園です。

 春にはサクラの花見、7月には「光が丘公園祭り」8月は「光が丘フェスティバル」という2大夏祭りもあり遠方からも多くの人々が毎年やって来て盛大なイベントになっています。

 「光が丘IMA」というリヴィン、ダイエーの他、多くの専門店を抱えたショッピングセンターもあります。週末は光が丘のみならず、いろいろな方面から買物客が訪れ賑わっています。

 光が丘を知らない人は近くの方のみならず、ぜひ一度訪れてみませんか? よろしくお願いいたします。

取材協力/YC光が丘

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