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神奈川県・横浜市 2014.05.30
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800余年の歴史を刻む、屏風ヶ浦


源頼朝は海からの絶景を「屏風のようだ!」と絶賛したという。

   屏風ヶ浦という名前の元をたどれば、鎌倉時代に源頼朝が名付けたといわれ、その説を『屏風浦物語』では次のように記しています。

 建久3(1192)年、源頼朝が鎌倉に幕府を開きましたが、当時、金沢は江戸湾に面した漁村で鎌倉との交流があり、頼朝もしばしば、金沢から富岡、杉田の沖を船で遊んだといわれています。
 頼朝は、波静かな磯子の浜辺にそそり立つ断崖が、屏風を立てたように続く絶景を大変気に入り、家来に、「屏風のある浦(浦は陸地が入り込んで波の静かな所)に行きたい」と命じたことから「屏風ヶ浦」と呼ばれるようになりました。

 東漸寺には鎌倉時代に刻まれた詩板に、山水の美観を「石塀」と詠んでいる詩が残されており、また江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎は『杉田村観梅記』にその美しさを錦屏風と表現、その頃から杉田梅林が関東一円の名勝となったのも、屏風ヶ浦の景観があったからといわれています。
 
安政元年(1854)に軍艦7隻とともに再航したペリー一行は、この地が故国のミシシッピーの風光に似ていると海図に記載したとか。

 そのころの屏風浦とは、現在の中区本牧町から金沢区富岡町までの海岸一帯を総称した。
 慶応3年(1867)12月25日、品川沖で幕府対薩摩藩の戦いが起き、薩摩藩の三田藩邸焼き打ちで命からがら逃れた藩士たちが乗る船と、それを追いつめる幕府の船とその光景を屏風浦から眺めていたのが、在留外国人だったという。
 昭和2(1927)年、久良岐郡屏風浦村は横浜市に編入され、区割がしかれて磯子区森町、中原町、杉田町となり、地図上の地名からは「屏風浦」が消えてしまいました。
 今、丘陵地には住宅が建ち並び、浦は昭和34(1959)年頃からの埋立てで、昔日の面影は全くないが、「屏風浦(屏風ヶ浦)」の名は、地域名、小学校名、駅名、道路名などに残されている。

 ■YC屏風ヶ浦 大蔵 哲

 

 

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