アクティブなシニアライフを応援する情報サイト

素敵に年を重ねる’あなた’のための応援サイト
Home

文字サイズ変更

  • 標準
  • 大

はいからCHANNEL インターネットTV
はいから大人の部活
遺言アプリ100年ノート


メディアのご紹介

  • 季刊誌はいから
  • 新聞はいからエスト

好評連載コラム

芸能人インタビュー

三國 連太郎 折れない芯があれば揺らぐことはない。 2008.02.26
Share

【芸能人インタビュー】一覧はこちら

 

特別インタビュー/三國 連太郎さん 

 優しい目元に、真摯な光を宿す三國連太郎さん。三國さんはこれまでに180本以上もの映画に出演し、「三國なくして日本の映画ならず」と言われるほどの、日本映画界の重鎮となりました。そんな三國さんは今、映画『北辰斜にさすところ』の主役を演じています。年齢と共にさらに発揮される圧倒的な存在感…。芝居への思いや、現代社会に対する思いについてお話を伺いました。

『北辰斜にさすところ』を通じて蘇る、当時の生々しい記憶

 かつての日本に存在した、「旧制高等学校」という特殊な教育機関。現代の大学に相当するそこは、伝統の中で学問を学ぶと同時に、狭き門をくぐり抜けた若きエリートたちが切磋琢磨しながら人格を形成する場でもありました。映画『北辰斜にさすところ』で三國さんは、そのひとつである旧制第七高等学校にて青春の日々を送り、若かりし頃の戦争の傷跡を色濃く残した老医師の役を演じました。ご自身も戦争の体験者である三國さんが、当時の状況について口を開きます。

 「戦争が嫌で九州の呼子まで逃げましたが、母親に手紙を書いた数日後、家に連れ戻されてしまいました。そして静岡の部隊に入隊することに…。

僕のせいで非国民と見なされて、家族が村八分になってしまうから、家族と母が涙を飲んで警察に僕の居場所を教えたんです。非常に辛い選択だったと思いますよ。当時は誰もが辛い思いをするような時代でした。ところが戦地に向かう途中、僕は熱病にかかってしまい、十日間意識不明になりました。死んだものだと思われて、工場の隅でむしろをかぶらされて放置されていた。焼き場に運び、いざ焼く番になってむしろを剥がしたら、目を覚ましたんです。自然治癒力と言うんでしょうか、十日間で熱が下がったんですね。不思議な体験でした」

 と、三國さんは淡々と語ります。そして一度も前線に行くことなく、終戦を迎えることになりました。そして故郷である静岡に帰る途中に、三國さんは衝撃的な光景を目の当たりにします。

 「広島に到着すると、駅のホームから四国が見えた。広島の駅から瀬戸内海を通して、四国が見渡せたんですよ。街がひとつもなく、ただドームだけが残っている。原爆に全て薙ぎ払われて、焼け茶色になっていたんです。原爆や戦争は、何も生み出さない。そこにあるのは徹底的な破壊だけ。映画で僕が演じた医師も、何年も経った現在でも戦争の傷跡を引きずっています」

しなやかな強さは、現代人には見られないもの

 「映画は、旧制高等学校という教育機関が存在する、最後の方の時期が舞台となっていますね。映画の中の人物たちは、変わりゆく日本の狭間の中で呼吸していた、最後の人たちじゃないでしょうか。あの頃の学生たちというのは、若者のある世代をとてもシンボリックに表現しています。今の若い世代の人たちとは、ちょっと違う人種のような気がしますね」

 戦後に敷かれた大きな占領政策の中で、若者たちの思想が変形してしまった、と三國さんは続けます。

 「僕自身は放浪者みたいなものですから、誰からもどこからも何の影響も受けていません。だからこそ、周囲の人たちの思想が変わってゆくさまが、却って良く見えたんです。戦前から生きてきた人々というのは、“気張り”がない。非常に人間的というのでしょうか?自然体なんですよね。それとは対照的に、戦後に生まれ、戦後に人格形成をした人たちは、気張り過ぎているような気がします。彼らは何か大きな事柄と向かい合ったとき、“人生を懸ける”というようなたいそうな姿勢で臨みますよね。けれど、僕らの世代がそういう思想を持つことはなかったんですよ」

 人々が変わってしまった要因を、三國さんは当時を振り返りながらこのように話します。

 「占領軍がいた頃の日本というのは、あらゆる制限がありました。生活様式から文化に対する制限まで、ありとあらゆるところに監視の目が光っていたんです。ただ、歌舞伎に対してはそういう制限はなかったんですよ。歌舞伎という日本独自の世界観は、占領軍には理解しにくかったのでしょうね。しかし映像とかそういったものに関しては非常に敏感でした。映画も新劇も、米軍の許可がないと上映できなかったんですよ。そういう制限の多い、縛り付けられた中で今の人たちの世界や価値観は形成されていきました。だからこそ伸びやかさというものがなく、気張りばかりが目立ってしまうのかもしれませんね。戦後生まれの人たちは荒々しく見えるけれど、やっぱりどこか脆いんですよ。目をぎらぎらさせて自分の人生と対峙し、対決しているように見えるけれど、『どうしてこんなところで?』と不思議に思ってしまうような柔弱な部分で、行ったり来たりしている。旧制高等学校の出身者にはそういったところがありませんでした。映画をご覧になっていただくとわかると思うんですけれど、芯がしっかりしているんですよ。

旧制高等学校制度は占領政策の一環として全て廃止されましたが、もしかしたらその“強さ”を脅威に思われたせいもあるのかもしれないですね」

この記事の続きを読むには「はいから」を定期配本サービスにお申し込みいただく必要があります。お申し込みはこちらから

三國 連太郎(みくにれんたろう)

1923年、群馬県生まれ。1950年に松竹大船の研究生として入り、51年に『善魔』の主役でデビュー。役名の「三國連太郎」がそのまま芸名となった。『ビルマの竪琴』(56年)、『飢餓海峡』(65年)、『はだしのゲン』(76年)、『未完の対局』(82年)、『マルサの女2』(88年)、『大河の一滴』(2001年)など、主演・出演作多数。86年には『親鸞・白い道』を製作。スーさん役を演じている『釣りバカ日誌』(88年~)シリーズはロングヒットを継続中。

北辰斜にさすところ公式サイト

【芸能人インタビュー】一覧はこちら


Back PageTop

  • 会社案内
  • プライバシーポリシー
  • ご利用規約
  • お問い合わせ
  • 広告掲載のご案内